■ 出口王仁三郎 聖師
出口王仁三郎聖師詳細へ

・ 「瑞月(聖師)が霊界物語を編纂するのも、要するに法すなわち経蔵または教典を作るので、すなはち神を生みつつあるのである。また自己の神を現し、また宣伝使といふ神を生むためである。ゆえにこの物語によって生まれたる教典も、宣伝使も、神言も、みな神であって、要するに瑞月そのものの神を生かすためであると確信している。『霊界物語』そのものはつまり瑞月の肉身であり、霊魂であり、表現である。」(霊界物語第40巻緒言)

・ 冠句サークルで聖師は、撰者としての名「朝寝坊、閑楽(かんらく)、宗匠」
幹事として参加している時の名「安閑坊、喜楽」の二種類を使っていました。





■ 出口なお 大本教開祖
大本教の開祖、出口なお(1837―1918)
極貧の生活を送っていた開祖に、55歳の節分の夜、国常立尊が〝帰神〟以後、生涯を通じ「大難を小難に、小難を無難に」と、一身を捧げて世界平和と人類の平安を祈り続け、神さまの啓示を筆で書き記す〝お筆先〟のご用に仕えられました。
やがて「筆を持て」と言う神のお告げを受けて、開祖の手が自然に動き〈自動書記的に〉、和紙に文字を書き始める。昇天までの27年間に半紙約20万枚に達する。





■ 出口すみこ 大本教二代教主
大本開祖出口なお・政五郎の五女として京都府何鹿郡綾部町(現・綾部市)に生まれる。1900年、出口王仁三郎と結婚する。1918年、なおの死により二代教主となる。1946年(昭和21年)2月7日、王仁三郎は「愛善苑」を結成して苑主となり、大本の復興に尽力する。だが1948年(昭和23年)1月19日に逝去、澄が二代苑主となった。1952年(昭和27年)3月31日、69歳で逝去。





■ 出口直日 大本教三代教主
明治35年(1902年)、京都府綾部で、出口王仁三郎と二代教主出口すみ(澄)の長女として生まれる。昭和3年(1928年)高見元男(三代教主補 出口日出麿)と結婚する。
昭和27年(1952年)の教主就任後は独善的・観念的におちいりやすい信仰生活者をいましめ、「脚下照顧」を旨とした教風をうちたてる。
幼少より日本伝統文化に精進した。書道・茶道・能楽・短歌・八雲琴・陶芸など、たゆみない習練を続けて来た体験から、日本の伝統文化の世界的地位を説き、日本民族としての誇りと自覚を高め、高い教養を身につけ、生涯精進をおこたらなかった。
信徒はもとより文化人を招き清談を交わすなど、“花鳥風月”を友とし身をもって日本の心を説いた。
平成2年(1990年)9月23日、88歳で逝去

・ 直日に初めて陶芸の手ほどきをしたのは金重陶陽である。
手ひねりのぐい呑100点を作って窯(瑞月窯)と作業場も整えられ、陶芸への本格的な歩みが始まった。
その翌年には京都の清水にあった本格的な登窯を陶芸家の宇野三吾から寄贈されて、亀岡の「天恩郷」に築かれた。「花明山(かめやま)窯芸道場」という名の作陶場も開設され、花明山窯築窯当初から今熊野蛇ヶ谷に住んでいた石黒宗麿が指導にやって来ており、石黒宗麿が轆轤を教えるなどした。石黒は鉄釉陶器や磁州窯の白化粧、赤絵、呉須絵、練込手など、さらに李朝系や唐津風の焼物などを指導しているが、これによって陶陽や素山の作風にも影響を与えた。

こうして金重陶陽はじめ、金重素山・宇野三吾・北大路魯山人・荒川豊藏・河井寛次郎・小山冨士夫・加藤唐九郎など日本の陶芸界を代表する作家が数多く集まるようになり、陶芸文化サロンとなった。

・ 木の花暁丸(このはな さとまる)
出口直日のペンネーム。大正9年(1920年)からこのペンネームで和歌を機関誌『神霊界』や大正日日新聞などに発表した。





■ 出口日出麿(ひでまる)尊師
岡山県倉敷において、明治30年(1897)に出生。平成3年(1991)12月、96歳で昇天。
三代教主の夫。青年時代からすぐれた霊的感受性を持つ。
大正8年(1919)、大本入りし、昭和3年(1928)、三代教主と結婚。





■ 出口寿賀麿(でぐち すがまる)
聖師出口王仁三郎・二代教主すみこの次女・梅野の最初の夫。寿賀麿は大本名。本名は遙(はるか)。旧姓・浅野。(浅野遙)
叔父の浅野和三郎の影響で大本に感化される。親の反対を押し切り、大正5年(1916年)11月に中学を中退して綾部へ行く。





■ 出口乕雄
聖師出口王仁三郎・二代教主すみこの次女・梅野の夫・乕雄