出口王仁三郎年譜

明治・大正昭和


明治4年(1871)
○旧7月12日、京都府南桑田郡曽我部村穴太に誕生。産土神・開化天皇。小作農上田吉松、世祢(よね)の長男として誕生。実父は有栖川宮熾仁親王という説あり。円山応挙(上田主水)の七代目。幼名喜三郎。



【オニドより引用】
「王仁三郎は幕末から明治初期にかけて皇位継承順位が第一位だった有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王の子供。有栖川宮家(約300年前の霊元天皇の血を引く)が幕末当時、天皇に一番血筋が近い宮家だった。

熾仁親王は妃との間に子供がいなかった。だが結婚前に京都に滞在していたときに、船宿の女中との間にできた落胤(らくいん)がいた。
女の名は上田世祢(よね)という。世祢は妊娠したことがわかるとすぐに郷里の亀岡に帰り、お婿さんを迎えた。そして生まれたのが上田喜三郎、後の出口王仁三郎である。

皇位継承順位第一位の親王の御子である。それがもし当局に知られたら暗殺されてしまう可能性がある。だからこの事実は隠された。実際に生まれたのは明治3年7月12日だが、明治5年に戸籍制度ができると一年遅く「4年」生まれとして届け出た。熾仁親王は2年11月に東京に移住したので、4年生まれにしておけば熾仁親王の子である可能性がなくなるからだ。また結婚したのは「2年」として届け出た。こうして喜三郎を守り育てたのである。」


明治11年(1878)満7歳…………
○病身のため学校入学が3年遅れ、その間祖母(言霊学者・中村孝道の妹という)の薫陶を受ける。特に言霊について学ぶ。


明治13年(1880)満9歳…………
○偕行小学校(西国21番観音霊場穴太寺境内)に入学。


明治16年(1883)12歳…………
○小学校を退校し、二年間その代用教員となる。


明治18年(1885)14歳…………
○代用教員をやめ穴太の豪農斎藤源治のもとに奉公。


明治20年(1887)16歳…………
○久兵衛池事件。
○2年間の斎藤家奉公を止め、家の農事手伝い。夜学で国学、漢籍を学び、冠句、狂歌、戯文などにも興じる。

明治24年(1889)19歳…………
○このころ 冠句に興味をもち、偕行社という冠句や文芸のサ−クルを結成。
○このころの恋愛談多い。

明治25年(1892)
○旧1月1日 出口直に艮金神の帰神。世の立替えをさけび「東からくる人」を待つ。


明治26年(1893)22歳…………
○初夏、園部に。牧畜と獣医学を学ぶ。このころ岡田惟平につき国学、和歌を学ぶ。
○出口直、この年4月、放火の嫌疑で綾部警察署に留置される。その後自宅の座敷牢に。

明治27年(1894)23歳…………
○8月1日 日清戦争はじまる。
○10月 出口直、はじめて艮金神を金光大神とともに綾部で奉斎。


明治28年(1895)24歳…………
○園部より穴太に。京都府巡査、典獄の試験に合格するが、牧畜に専念。

明治29年(1896)25歳…………
○穴太で牧場と精乳館経営。


明治30年(1897)26歳…………
○出口直は4月、裏町の伊助の倉で単独で艮金神を鎮祭。
○7月、父吉松帰幽(53歳)。
○夏、小幡神社(産土神社)に三週間参詣、「三大学則」の啓示をうける。

明治31年(1898)27歳…………
○旧2月9日から一週間、高熊山で修業。その後の床縛りなどを通じ、霊界を探検し、三界の現状と自分の使命を覚る。
○4、5月に、清水の稲荷講社の長沢雄楯(本田親徳の弟子)を訪問。審神を受け、布教の資格などを得る。
○夏、八木で福島久子とであい、出口直の話を聞く
○10月、綾部の裏町で出口直とあう。役員の反対で綾部を去る。
○晩秋 北桑田宣教。


明治32年(1899)28歳…………
○7月4日 再度、綾部に。
○7月10日 「十曜の神紋」が神示される。
○8月 金明霊学会組織
○8月 上谷で幽斎修業。神懸り多発。


明治33年(1900)29歳…………
○1月 出口澄子(出口直末娘)と結婚。
○7月4日(旧6月8日) 沓島開き。
○8月2日(旧7月8日) 冠島開き。
まことの神が押し込められていた若狭湾の島。
丹後一宮である篭神社では、奥の院として祭神を天火明命としている。
冠島沓島開きにより、神霊は弥仙山に。
明治42年に、王仁三郎によって綾部にと遷座してゆく。
○10月 鞍馬山出修。


明治34年(1901)30歳…………
○4月26日(旧3月8日) 水の御用(元伊勢に)。
○このころ 王仁三郎は、静岡の長沢雄楯の審神で日露戦争の詳細な予言を行なう。
○5月27日 元伊勢の水を丹後の沓島冠島の竜宮海に。
○7月1日 出雲出修に。7月20日帰綾。途中から〈火水の戦い〉はじまる。
火水の戦いとは、出口直に懸かるアマテラスと王仁三郎のスサノオの霊的戦い。また出口直に懸かる艮金神と王仁三郎の小松林との霊的な言論戦。王仁三郎は、出口直の筆先で悪霊とされ、役員連からの迫害を受ける。
○10月 法人組織化のために、駿河の稲荷講社に。出口直は弥仙山に岩戸ごもり。


明治35年(1902)31歳…………
○3月7日 長女朝野(直日)誕生。
○9月 京都、園部宣教。人造精乳会社を起こす。
○旧10月 地獄谷で王仁三郎は開祖派による暗殺の危難に。


明治36年(1903)32歳…………
○5月24日(旧4月28日) 弥仙山岩戸開き。
○「筆のしずく」「たまのいしずえ」「いろは歌」(『瑞の神歌』)など執筆。
○この頃を回顧した王仁三郎の回顧歌集(昭和8〜10年『百千鳥』)には、「今に見よ三千世界が返るぞと朝から晩まで寝言言ひをり」「そのころの綾部の大本は狂人の集合なればせんすべもなし」 など、日露戦争直前に「立替えちかし」と狂い立つ役員の様子が描かれている。


明治37年(1904)33歳…………
○2月10日 日露戦争はじまる。
○9月20日 上田王仁三郎と改名。綾部町役場に届け出。
○王仁三郎「本教創世記」「道の栞」など執筆。


明治38年(1905)34歳…………
○5月14日 開祖沓島ごもり。
○教団財政逼迫。役員たちは王仁三郎を徹底して圧迫。王仁三郎の著作のほとんどが焚書される。
「明治38年は、吾35歳の年にして、最大の困苦を嘗めたりしが、今日の大本は此時に於て発芽せりといふべし」(王仁三郎)
○「道の大本」執筆。


明治39年(1906)35歳…………
○9月 京都の皇典講究所に入学。


明治40年(1907)36歳…………
○3月 皇典講究所卒業。京都府神職試験に合格。5月建勲神社主典となる。
○12月 建勲神社をやめ、伏見稲荷御嶽教西部教庁の主事に。


明治41年(1908)37歳…………
○3月 湯浅仁斎(十年目の予言されていた弟子)、王仁三郎を訪れる。
○8月 金明霊学会を大日本修斎会に改組。
○12月 御嶽教を辞し帰綾。


明治42年(1909)38歳…………
○11月22日 弥仙山より神霊をおむかえ。神殿竣成および遷宮式をおこなう。


明治43年(1910)39歳…………
○2月3日 節分で人型行事はじまる。
○宣教活動活発に。
○5月 大逆事件。
○12月 出口家に入籍。上田王仁三郎から出口王仁三郎に。 

明治44年(1911)40歳…………

明治45年(1912)41歳…………
○4月 出口直らとともに、伊勢神宮(内宮、外宮)、御香良州神社参拝。
○5月 祖霊社新築。


大正 2年

大正 3年(1914)43歳…………
○3月 肝川に。
○8月 機関誌「敷島新報」創刊。
○このころ 金龍海第一期工事完成。


大正 4年(1915)44歳…………
○各地への宣教つづく。


大正 5年(1916)45歳…………
○4月〜5月 横須賀、東京へ巡教。
○6月25日 神島開き。
○10月4日(旧9月8日) 出口直はじめ81名、神島参拝。出口直大本開祖の〃見真実〃。
見真実とは……。瀬戸内海高砂沖の孤島・神島に、みろくの大神(主神)が押し込められていたとする。その神島に無言の王仁三郎と渡った出口直は、はじめて自分が待望していた神柱が、王仁三郎であったこと、王仁三郎こそがみろくの大神であったことを啓示され、驚愕する。これを開祖見真実という。
○嵯峨に八重垣神社(祭神・神素盞嗚大神)完成
○「大本略義」著述。スサノオ主神論が展開されている。


大正 6年(1917)46歳…………
○『神霊界』刊行。浅野和三郎編輯主幹に。『神霊界』に神諭発表。
○浅野、鎮魂帰神法を講座などに導入。王仁三郎もそれをやらせる。霊と神を取り違える信仰になるも、霊界の実在を実証するものとして、宣伝効果をあげる。
○軍人の参綾多い。
○神武館竣成し、演武場とする。
○11月 金龍海に大八洲神社完成。
○「大正維新に就て」など著作。皇道経済論。〃天皇〃を再分配の原理とする社会変革論。


大正 7年(1918)47歳…………
○8月18日(旧7月12日) 75日の修業。
○11月6日 出口直昇天。
○11月11日 第一次世界大戦終わる。
○全国からの修業者増加。
○著作「太古の神の因縁」「国教樹立に就て」(大本を国教とすべきとの論)「宗教の害毒」など。


大正 8年(1919)48歳…………
○2月25日 本宮山を買収。
○11月18日 亀山城の買収。
○警察の干渉、新聞での攻撃が激しくなる。


大正 9年(1920)49歳…………
○各地(東京、京都、大阪、神戸等)で大講演会。
○8月 亀岡大道場で夏期講習。
○8月 大正日日新聞買収。9月25日から再刊。
○9月15日 王仁三郎、五六七殿(みろくでん)で「弥勒の世に就いて」の講演。役員たちの終末論を批判。
「…世の終わりが近づいたという事は、基督教でも、仏教でも唱えております。それを神さまが金剛力で支えて居って、其の間に改心させて、一人でも余計に助けたいと御骨折りになって居ります。それも知らずに『それは大正10年頃だ』とか、『11年頃が本当だ』とか『嘘だ』とか言って騒ぎ廻って居って、『若し大正11年に来なかったならば、我々が先鋒となって大本を叩き潰して了う』といって居る人等が在るとか言う事で、実に面白いことであります。是は全く悪魔に魅せられて居るので、神さまの事が分かるどころか、利己主義の骨頂であります。斯う云う事で、何うして弥勒の世が実現しましょうか。…」 (大正9年9月15日、王仁三郎、五六七殿で講演)
○10月、11月に当局より開祖の奥津城の改修を命令される。


大正10年(1921)50歳…………
○2月12日 大本第一次弾圧事件はじまる。
○5月 予審決定。新聞などでの大本攻撃はじまる。
○6月 126日(バイブルにあるイエスの試練の日数)ぶりに責付出所。
○10月5日 第一審判決。不敬罪で懲役五年。控訴。
○10月18日 霊界物語口述開始。20日本宮山神殿破壊される。


大正11年(1922)51歳…………
○霊界物語口述つづく。
○2月 五六七殿に神劇舞台仮設し、霊界物語の神劇。(3月30日、大八洲彦の神霊を五六七殿の神劇舞台に鎮祭)霊界物語の身体を通しての読み取りは、音読の勧めなどにもあるように、一貫している。
○3月8日 レコード吹き込み(天津祝詞、基本宣伝歌、誠の信仰など)
○浅野和三郎、谷口雅春など、教団をはなれる幹部多い。
○9月 バハイ教徒(回教系の新興宗教)来訪。諸教同根、万教同根への志向。


大正12年(1923)52歳…………
○霊界物語口述。47巻から。7月中旬の65巻まで。
○2月 大正日日新聞休刊。
○6月28日 大本エスペラント研究会発会。筆先(開祖)時代の国粋的閉塞を破るもの。
○8月 熊本県杖立温泉に。御手代はじまる。世界救世教の〃てかざし〃などの源流。
○9月1日 関東大震災。
○11月 世界紅卍字会(道院)の使者来綾。提携が成立する。
○12月 朝鮮の普天教と提携。


大正13年(1924)53歳…………
○1月 大本博愛医院(柴田健次郎院長)設立。
○2月 王仁三郎『錦の土産』執筆。教団の中核に侵入してくる悪霊の働きを予言。
○2月13日 入蒙の途へ。(6月、パインタラの難。7月責付取り消しで入監)
○11月 保釈出所。


大正14年(1925)54歳…………
○1月 神教宣伝使(宣伝使)任命。霊界物語の神素盞嗚大神の宣伝使の具体化。
○2月 亀岡の天恩郷開拓。
○3月 普通選挙法、治安維持法(4月22日治安維持法公布)。
○3月21日 宣伝使服制定。
○3月22日 月の輪台竣成。
○5月22日 世界宗教連合会、北京で発会。
○6月9日 人類愛善会発会。
○6月11日 西村光月、万国エスペラント大会出席のために渡欧。
○6月30日 瑞霊真如聖師の称号。
○10月1日 人類愛善新聞創刊。
○10月 光照殿完成(人類愛善会本部)


大正15年(1926)55歳…………
○1月 パリでエス文「国際大本」創刊。
○1月 楽焼きの絵付け。2月、天恩郷内に窯を作り楽焼きをはじめる。
○3月 大正日日新聞の債務問題。5月に解決。
○5月 『真如の光』に「歌日記」連載開始。


昭和 2年(1927)56歳…………
○1月 中矢田農園を買収し、大本理想社農園と命名。
○明光社結成。冠句会の月光会と和歌の月明会を合併。8月『明光』発刊。
○5月 第一次大本弾圧事件、大赦令により原審破棄免訴に。
○12月 台湾、琉球、奄美に巡教。(昭和3年1月14日 喜界島の宮原山に)


昭和 3年(1928)57歳…………
○3月3日 満五六歳七ヵ月。みろく大祭執行。第二次事件では、国体破壊のための結社をつくったとして、検挙理由に。
○全国巡教。5月四国、7月から11月にかけ、北陸、東北、北海道、樺太、千島地方へ。
○秋 月宮殿完成。
○12月 神しゅう別院(日吉津)完成。
○『ふたな日記』『東北日記』など刊行。


昭和 4年(1929)58歳…………
○4月 「出口王仁三郎作品展」開催開始。(金沢、徳島、名古屋、米子、松江……全国各都市で)
○4月16日 共産党全国的大検挙。
○5月26日 信州に。皆神山(6月3日)。
○7月 楽焼制作所〈蓮月亭〉完成。
○みろく踊りを本格化。
○10月12日 王仁三郎夫妻、朝鮮、支那、満州へ巡教。
○『日月日記』刊行


昭和 5年(1930)59歳…………
○「出口王仁三郎作品展」ひきつづき各地で(大阪白木屋、神戸、上野美術館、……)
○3月8日 京都宗教大博覧会(岡崎公園)で大本館を特設。5月6日まで。
○3月18日 大祥殿にて「弥勒殿」の大額を揮毫。
○4月 穹天閣(本宮山)完成。
○5月20日 熊山(神素盞嗚大神の奥津城。岡山県)に。
○5月25日 『昭和青年』創刊。
○5月27日 前田夕暮来訪。歌壇への進出がはじまる。6月若山喜志子を沼津に訪問。
○回顧歌集発表。『庚午日記』刊行。


昭和 6年(1931)60歳…………
○6月 みろく音頭ふきこみ。レコード化。
○8月 更生祭(還暦祝い)
○歌壇進出100社を越える。
○更生館(作品展示室)完成。
○9月8日 鶴山山頂に石碑(神声碑、教碑、歌碑)建立。教碑は大正12年12月から伏せられていたもの。10日後、満州事変はじまる。
○10月18日 (霊界物語口述十周年) 天恩郷に昭和青年会本部設置。王仁三郎、会長に。
○台北に別院、 ポナペに支部。奉天に別院。満州在理会、回々教シベリア協会などと提携。
○『更生日記』、『花明山』『彗星』『霞の奥』『東の光』『故山の夢』など刊行。
○この秋 大凶作


昭和 7年(1932)61歳…………
○3月 満州国樹立。
○満蒙博に愛善館を特設(2月大阪、4月京都)
○5月15日 五・一五事件
○5月北海道別院に神生歌碑、7月に喜界島に神声歌碑を建立。
○6月18日 ラマ教と提携。
○満州各地で出口王仁三郎作品展。
○7月26日 大日本武道宣揚会創立。王仁三郎、総裁に。植芝を会長に。
○7月 天恩郷で航空展。
○10月7日 王仁三郎、昭和青年会分列式で訓示。昭和青年会会歌〃若人のふるい起つべきときは来ぬわかき日本の春はちかめり〃制定。
○10月30日 大本大祭。挙国更生徹底の大運動を起こす。
○10月31日 鶴山山上にて昭和青年会全国支部旗樹立式。王仁三郎、長生殿礎石上にて謁見、訓示。
○『壬申日記』『霧の海』『白童子』『青嵐』刊行。


昭和 8年(1933)62歳…………
○2月1日 中之島梓亭(弓場)完成。弓=戦争の予示とか。
○2月4日 節分人型行事中、自ら太鼓を打ち七五三調を五六七調に改め、速佐須良比賣の大神として瀬織津姫の先頭に立ち和知川に。
○3月26日 みろく大祭を期し国体闡明運動。
○3月27日 日本、国際連盟を脱退。
○7月 亀岡で防空展を開き、各地へ。
○9月28日 七福神扮装写真撮影(映画ではなくスチール写真)。
○10月4日 (旧8月15日) 「天祥地瑞」口述開始。
○10月 観音・乙姫・達磨等、国常立尊・豊雲野尊・素盞嗚尊等の扮装写真撮影。
○10月27日 (旧09月09日) 神島参拝。大正五年の神島開きから十八年目のこの夜、みろくの大神の神霊を高天閣から月宮殿に遷座。
○11月10日 島根県八雲山山頂の八雲山歌碑除幕式に。
○11月25日 天恩郷東光苑に教歌碑、追憶歌碑の二基除幕。
○12月27日 伊豆・関東へ。昭和9年4月16日帰綾。
○『公孫樹』『浪の音』『山と海』など刊行。


昭和 9年(1934)63歳…………
○3月8日 人類愛善新聞、3月3日号をもって100万部拡張達成。
(昭和8年2月26日 伊豆湯ケ島での歌
「百万の愛善新聞出づる頃はいよいよ神も出でましたまはむ」)
○6月3日 『出口王仁三郎全集』(皇道編)第一巻出版。
○7月22日 昭和神聖会発会式を東京九段軍人会館で開催。
昭和神聖会…現状打破をめざし、800万人もの賛同者を集める。全国各地への発会式におもむき、皇道講座、皇道宣揚展、講演会、座談会、映画会など開催。愛善陸稲の普及にも努める。
○8月23日 穴太瑞泉郷の神聖歌碑除幕式(二基建立)
○秋 各地の昭和神聖会発会式に。
○10月1日 『神聖』創刊。
○当局の内偵本格化。
○『出口王仁三郎全集』1〜4巻刊行。


昭和10年(1935)64歳…………
○1月〜3月 各地の昭和神聖会発会式に。
○2月7日 瑞泉郷の石の宮・神聖神社鎮座祭を臨席のもと、大吹雪の中で執行。
○2月7日  透明殿完成。
○2月27日 天皇機関説排撃運動に。
○3月上旬 特高警察、大本文献を極秘裡に調査開始。
○4月 綾部、亀岡に。
○6月5日 万祥殿斧始式。
○7月22日 昭和神聖会結成一周年記念 賛同者800万突破。
○8月11日 万祥殿祭典。敷地に急造の天幕を張り祭典執行。大祥殿にて王仁三郎脚色の第一回神聖歌劇を公演。天之峰火夫の神に扮して出演。三幕四場。
○8月22日 「昭和の七福神」撮影。25日まで。
○9月下旬  長髪や髯を切らせる。(『大本七十年史』下315頁)
○10月13日 穴太にて十六神将の野外撮影。
○10月27日 大本大祭。長生殿斧始式。大正14年以来久しぶりの斎主。
○10月28日 長生殿祭。長生殿敷地で。みろく殿にて第二回神聖歌劇公演。
○10月31日 明光殿にて第一回歌祭り執行。主神スサノオの究極の祭典。
午後1時、歌祭。於・明光殿。王仁三郎お話。光照殿、愛善陸稲審査成績発表会。東光苑、奉納武道大会。夜、霊界物語拝読会。七十八巻「天降地上」。
○11月17日 北陸別院にて地方で最初の歌祭り。
○12月8日 大本第二次弾圧事件。巡教先の松江で検挙される。
◎第二次大本弾圧事件直前の教勢
○大本分所支部1990/
○大本別院27・分院分社41/
○人類愛善会支部1262/
○昭和青年会支部558/
○昭和坤生会支部371/
○明光社支社133/
○エスペラント普及会支部51/
○武道宣揚会支部129/
○人類愛善新聞支社339/
○昭和神聖会支部436地方本部29/
○宣伝使 9305人/
○王仁三郎歌碑 32箇所42基/
○人類愛善会海外本部 5(パリ、奉天、京城、ブラジル、シャム)/
○海外の大本支部 120/
○海外の人類愛善会 330/
○海外の宣伝使807人

………………………………
◎第二次大本事件検挙から大審院判決への経緯
検挙・・・ 昭和10年12月 8日
警察取調べ・・昭和11年 1月16日
検事局送検・・昭和11年 2月24日
起訴決定・未決監収容・ 昭和11年 3月13日
予審訊問・・ 昭和11年 3月14日
山科刑務所の未決監に・ 昭和11年 5月11日
予審決定・弁護団結成・ 昭和12年12月28日
第一審公判開始・ 昭和13年 8月10日
事実審理終了・・昭和14年 7月24日
検事論告・・ 昭和14年10月18日
弁護人弁論・・昭和14年11月10日
★第一審判決・・昭和15年 2月29日
土地返還民事訴訟・・ 昭和15年 6月15日
控訴審公判・・ 昭和15年10月 4日
第二審検事論告・・ 昭和16年12月22日
弁護人弁論・・昭和17年 2月12日
★第二審判決・・ 昭和17年 7月31日
保釈出所・・昭和17年 8月 7日
大審院公判・・ 昭和19年10月 7日
★大審院判決・・ 昭和20年 9月 8日
大赦令公布、不敬罪解消 昭和20年10月17日

………………………………
○12月 出口家、天恩郷から中矢田農園へ移転を命じられ、八重野、尚江、住之江の三世帯同居。

昭和11年(1936)65歳…………
○1月16日 被疑者65名に対する警察訊問・取調べ開始。
王仁三郎の取調べには警部・高橋誠治が担当。
○1月20日 大本の全出版物を発禁。
○1月29日 王仁三郎、京都中立売署より五条署に移され、拷問に。
○2月3日「高橋警部の熱誠ついに元兇王仁を降す」(杭迫日記)
○2月4日 節分の日。京都市内の積雪量は、京都測候所開設以来の記録。府下でも最大風速28メートルの猛吹雪。

○2月24日 王仁三郎、検事局に送局される。
○2月25日 午前九時から京都府会議事堂で全国特高会議開催。
○2月26日 二・二六事件起こる。
○2月頃 出口日出麿、過酷な取調べにより精神障害に。京都の日赤病院に入院。
○このころ「高橋警部は、この委任状(=中村への財産処分の委任状)を書けば、王仁三郎をはじめ留置者一同を釈放するといって強要したが、王仁三郎はこれを拒絶した。すると同警部は王仁三郎の頭部に手を かけ、向こうずねをけり、面部を乱打するなど暴行脅迫を続けた。あるいは一命にも関するに至るかと思われたほどである」(『大本七十年史(下)』)
○3月4日 王仁三郎の検事聴取書作文終る。
○3月9日 夜、栗原白嶺、中立売署獄中で縊死。
○3月11日 六本指で無罪をサインする王仁三郎の写真が撮影された日。
○3月13日 林頼三郎法相、起訴を決裁。
王仁三郎と高木鉄男が不敬罪・治安維持法違反、その他は治安維持法違反で、8名がまず起訴された。
また大本関係八団体に解散命令。内務省は大本本部および地方をふくむ全教団建造物強制破却処分を発令。
○3月14日 王仁三郎、五条署から中京区刑務支所(未決監・京都市中京区竹屋町通柳馬場東入菊屋町合一番地)に収容される。予審訊問開始。
○4月17日 綾部・亀岡の聖地を強制売却。
○5月11日 王仁三郎、山科刑務所未決監に。昭和11年〜14年の夏は山科で、15年〜17年の夏は、大阪北区刑務支所(大阪市北区若松町八番地)で過ごした。
○5月11日〜6月12日 綾部・亀岡の神苑破壊。
○7月2日 出口澄子を中京区刑務支所に。ボッカブリなどのエピソードは、中京刑務支所でのこと
○9月21日 岩田久太郎、中京刑務支所で獄死。

昭和12年(1937)66歳…………
○山科の未決監在監。


昭和13年(1938)67歳…………
○1月25日 30人の予審終結決定が発表される。
○1月29日 大本弁護団の会合開催。事務所は京都市中京区高倉通丸太町下る赤塚源二郎宅。2月23日から事務開始。
○4月30日 王仁三郎の予審終結決定。
○5月16日 公判準備手続きはじまる。
○8月10日 第一回公判。京都地方裁判所刑事部第一号法廷にて事実審理に。この時、獄中に勾留されていた者は、王仁三郎はじめ三九名。王仁三郎の審理は十一日から十二日に。

昭和14年(1939)68歳…………
○7月24日 事実審理終了。第一回公判以来約一年、検挙から三年八カ月。
○8月24日 京都地方裁判所検事局あて、弁護団全員の名前で、証人警察官を偽証罪で告発。
○9月3日 第二次世界大戦はじまる。
○10月18日から 小野検事による論告。19日に総論。21日求刑。
○11月10日から 弁護人弁論。12月20日まで。


昭和15年(1940)69歳…………
○2月29日 第一審判決。京都地方裁判所陪審大法廷で判決。
 治安維持法違反、不敬罪有罪。
 王仁三郎の無期懲役の判決、即日控訴。
○4月18日 大阪北区刑務支所(大阪市北区若松町八番地)に。
○10月16日 第二審(大阪控訴院)公判開始。


昭和16年(1941)70歳…………
○12月8日 太平洋戦争開始。
◎大本第二次事件と太平洋戦争の6年スライドの相応
…………………………………………………………………………
●昭和9年7月22日・ ●昭和14年7月22日 
 昭和神聖会発会式・ 第二次近衛内閣成立
…………………………………………………………………………
●昭和10年12月8日未明 ●昭和16年12月8日
 第二次大本弾圧事件発生・ 太平洋戦争勃発 
…………………………………………………………………………
●昭和11年4月18日・・ ●昭和17年4月18日
 綾部・亀岡の不当譲渡・・ 東京初空襲
…………………………………………………………………………
●昭和20年9月8日・●昭和26年9月8日
 大審院判決 サンフランシスコ講話条約提携
…………………………………………………………………………
○12月22日 検事論告はじまる。


昭和17年(1942)71歳…………
○2月12日 弁護人弁論。4月16日まで。
○7月31日 第二審判決。治安維持法違反は無罪。不敬罪、出版法違反、新聞紙法違反は有罪。
○8月2日 王仁三郎以下九人、大審院に上告。翌日、検事側も上告。
○8月7日 王仁三郎、澄子、出口伊佐男、保釈出所。6年8ヵ月ぶり。2435日。
○9月 事件回顧歌「朝嵐」を詠む。
○9月24日 天王平の共同墓地の開祖の墓参り。
○10月19日 穴太に。小幡神社参拝。


昭和18年(1943)72歳…………
○このころ 戦局の動きをいろいろ予言。
○5月から 『月照山』に収録された歌を詠む。
1542 五十年君国のため世のために闇照らさんと道を説きたり
1546 五十年の地上の準備の神業了へて十八年は第一年となれり
1549 昭和歴十八年の元旦は五十年準備の充てる日にぞある
1550 御経綸三千年に充ちぬるは明治の二十四年なりける
1551 昭和十八年のとしより三千年のいよいよしくみの幕は上がれり
1552 三千年と五十年にてきりかへの準備全く出来上りける
1556 三千世界一度にひらくしらうめの花咲きみちてみのるとき来ぬ
○10月3日 『月照山』の歌には、予言的なものも多い。
羊(18年)、申年(19年)、酉年(20年)。
小羊は地の上に食み梢には申(さる)食(は)みて居り鳥(酉)空に舞ふ
かつかつに羊のむれは草をはみ申はゆたかに木の果をくらう
樹に住める猿も又飢ゆ申の年鳥の翼も枯れて地に落つ


昭和19年(1944)73歳…………
○正月 「いよいよ今年は猿が木から落ちる年である。来年は酉あいの年で一寸言はれぬ」
○5月 「グロスの島の物語(霊界物語78卷)がいよいよ実現するのである。天津神が国津神になり、国津神が天津神になる。白紙で頼んだら王仁がでてやるのでその時になったら、悪い者は一番に馘にしてしまう。そうせぬと大改革はできぬ」
○6月9日から 王仁三郎、兵庫県籠坊温泉に入湯、20日間滞在して29日帰宅。
○6月16日 マリアナ沖海戦。日本海軍、空母、航空機の大半を失う。7月7日 サイパン島陥落。日本全土がB29の爆撃圏内に。
○7月18日 東条内閣総辞職。20日小磯国昭米内光政両大将に協力組閣命令。22日小磯国昭内閣(小磯、米内内閣)王仁三郎「ソロモン戦からソロソロ負けて、小磯づたいに米内に入る、小磯米内(ようない)国昭(くにあけ)わたす」
○8月4日 学童集団疎開はじまる。
○このころ 「日高山(霊界物語67巻6章「浮島の怪猫」)のところがでている」
○12月7日 東海大震災
○12月28日 亀岡の佐々木松楽宅で楽焼き開始。


昭和20年(1945)74歳…………
○「ダルン・コルパ(七十三)ナステ重ねて現世の救いの主と仰がれゆかむ」(昭和7年の歌)
○この年 「王仁が出たのはお筆先をあはさぬ様にする為である。お筆先があたってたまるものか」
○1月1日 楽茶碗に鳥の一筆画。ゆう薬を塗り、六十個の楽茶碗を焼く。
○2月10日 楽茶碗の他に水指し、杓立て、蓋置き、香炉、香合、皿、菓子鉢、建水湯のみ、神笛、等々を造りはじめる。
○4月4日 小磯内閣総辞職。7日鈴木内閣成立。
王仁三郎「日本は鈴木(すすき)野になる」「日本はなごうは鈴木貫太郎(つづかんだろう)」
○4月ころ 「広島はあぶない」
○8月6日 広島に世界初の原子爆弾。王仁三郎は昭和19年秋から「広島はひどいめにあう」と語り、信徒の疎開を指示している。
○8月15日 終戦。 王仁三郎「こうならぬとこの神は世に出られぬ」
○9月8日 大審院判決 上告棄却。治安維持法無罪。不敬罪有罪。
○9月下旬 出口王仁三郎、弁護士団による補償提起を拒否する。
○10月 酵素利用の農業講習会。
○10月17日 大赦令で不敬罪消失。
○10月 綾部、亀岡の土地返還される。
○12月8日 第二次大本事件解決奉告祭。
○12月10日 王仁三郎、綾部を出発、鳥取市外吉岡温泉に入湯へ。昭和21年の新年もそこで迎える。
○12月28日 朝日新聞鳥取支局通信員織田正三記者が吉岡温泉に取材に。

○12月30日(日) 「吉岡発言」公表される。

昭和二十年十二月三十日(日) 大阪朝日新聞掲載
予言的中〃火の雨が降るぞよ〃 新しき神道を説く出口王仁三郎翁
(鳥取発)

去る十年十二月八日大本教弾圧の際検挙されてから本年九月八日解放されるまで十箇年間、沈黙していた大本教祖出口王仁三郎氏は七十五才の衰へもみせず、獄中生活でかかった軽い神経痛の保養のため、いま鳥取市外吉岡温泉で静養している。敗戦日本の冷厳な姿がどう映じたか、神道の変革や信教の自由は…獄中生活の思い出をまじへて語る同教祖の弁

自分は支那事変から第二次世界大戦の終るまで囚はれの身となり、綾部の本部をはじめ全国四千にのぼった教会を全部叩きこわされてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は再建せずして再建されてゐる。

ただこれまでのやうな大きな教会はどこにも建てない考へだ。
治安維持法違反は無罪となったが、執行猶予となった不敬罪は実につまらぬことで、「御光は昔も今も変わらぬが、大内山にかかる黒雲」といふ浜口内閣時代の暴政をうたったものを持出し、〃これはお前が天皇になるつもりで信者を煽動した不敬の歌だ〃といひ出し、黒雲とは浜口内閣のことだといったが、どうしても通らなかった。自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのため弾圧をうけた。

〃火の雨が降るぞよ、火の雨が降るぞよ〃のお告げも実際となって日本は敗けた。これからは神道の考へ方が変わってくるだらう。国教としての神道がやかましくいはれているが、これは今までの解釈が間違ってゐたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。ただほんたうの存在を忘れ、自分に都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社が神様でなく、唯の人間を祀ってゐることが間違ひの根本だった。

しかし大和民族は絶対に亡びるものでない。日本敗戦の苦しみはこれからで、年毎に困難が加はり、寅年の昭和二十五年までは駄目だ。

いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれてゐる。本当の世界平和は全世界の軍備が撤廃した時にはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。


昭和21年(1946)75歳…………
○1月1日 天皇人間宣言。
○2月7日 愛善苑設立者会合を開き、設立趣意書・定款および役員がきまる。
○3月 茶碗つくり、この月まで。36回3000個。
○5月 出雲、鉢伏山など巡教。
○6月4日 綾部神苑の月山不二の鎮祭。
○6月26日 西本願寺法主大谷光照伯および内室部長、真渓・牧野両顧問来苑、記念撮影後城跡を参観。大朝記者 3名来訪。
○7月中旬 和歌山県熊野地方に巡教。
○8月9日(旧7月12日) 誕生祭。本宮山で祭典。
○8月26日 王仁三郎、脳出血の第1回目の発作。
○12月5日 夕方 聖師、中矢田農園から瑞祥館に。
○12月8日 第一回全国代表者会議。宗教法人化の方向で「愛善苑趣意書」発表。


昭和22年(1947)76歳…………
○1月20日 宗教法人令に基づく宗教法人化。23日教団設立届け
○4月23日・・祖霊社復活。
○8月27日(旧7月12日) 生前最後の聖誕祭・「瑞生祭」。


昭和23年(1948)76歳5ヵ月……………………
○1月18日(旧12月8日) 容態急変。
○1月19日 午前7時55分、昇天。76歳5ヵ月。



ページのトップへ